suitandtie

日記的な

日記だよ!でもアメリカに住んでる→日記なのに日付がずれる!→こまけぇこたぁいいんだよ!

終わりのはなし

その人は膵臓がんだった。

 

約1年前に突然降って湧いたように診断されて、あっという間に告げられる余命。そしてそれからの辛い闘病生活。地元の医者からその道の権威、果てはあまり信憑性がないような代替医療まで、様々な方面から診察を受けたのちに闘病を開始。その期間の話を聞いただけでも、「辛い」なんて短い言葉では表しきれないとっても過酷なものだったよう。

 

その人が今年亡くなった。その人は、私の妻の大切な家族だった。そばで闘病を見守っていた妻は、その人が亡くなってすぐにかけてきた電話口で、その人が辛い闘病生活から抜け出せてホッとしたと言っていた。私は、そうだねとしか言えなかった。

 

私は、訃報を聞いてすぐ次の日に飛行機で日本に向かい葬儀に出席した。亡くなった人を見送る式に良いも悪いもないかもしれないけれど、その人の葬儀はとてもいいものだったと思う。友人・知人が沢山来席していて、みんな故人を偲んでいた。私が死んで葬式をしても、あそこまで沢山の人は来てくれないと思う。それほどの数の人が、その人が亡くなったことを嘆き悲しんでいる姿を見て、あぁその人は本当にたくさんの人に愛されていたんだなと思った。

 

その翌日には火葬が執り行われた。私は、人生で初めて火葬場に行った。遺体が焼却炉に入るのを見送ってそのあと待合室で待っていた1時間と少しは、すごく不思議な時間だった。

 

「待つ」という行為は大抵の場合、その後に起こる出来事に期待して少なからずポジティブな気持ちで行う行為だと思う。友達や恋人との待ち合わせ然り、ラーメン屋の行列で待つこと然り。しかし火葬場での待ち時間では、今までのこと、現在起こってること、さらにこれから起こることのいずれについても考えようと思わなかった。少なくとも私はそうで、参加していた私と妻の家族みんなも同じように見えた。悲しいことはなるべく考えないようにして、かと言って面白可笑しい話をするわけでもなく。話すことといえば待合室で食べた巻き寿司の味だとか、火葬場の庭がキレイだとか、待合室の座敷で横になって気持ちいいとか。こういうことを1度や2度じゃなく待ってる間に何度も何度も繰り返し話している様子は、少し滑稽に思えたほどだった。あの時はまさにみんな心ここにあらずという状態だったんだと思う。

 

そして骨上げの時間。これも私は初めての経験だった。私は何かを初めて体験する時、新しい知識を得ていることにとても興奮する。そしてそれは、この喜ばしくない場面においても同じだった。骨上げをする箸は竹の箸と木の箸1本ずつ、長さも材質も違う箸を1膳として使い拾骨する。担当の人の説明では、理由は諸説あるが、この世では揃った箸を使うのが普通だが、骨上げは故人をあの世へ送り出す行為でありこの世のものではないという意味で不揃いの箸を使うんです、と言っていた。骨上げの最中にこういう事を質問して、そして今まで知らなかったことを知って小さな知識欲を満たしてしまう私は、すごく小賢しいと思った。

 

その人の遺骨を見た時、人間の骨の形はネットやテレビや漫画などで見ているから驚きはなかったけど、知っている人の骨を目の前で見るということはとても怖かった。その人の顔も姿かたちも声も動きも私の記憶の中にはあって、携帯を見ればその人が写った写真もある。生前にはその人に触れたこともあって、でもいま目の前にその人が骨だけになっている。その骨は火葬で熱くなっていて触ることもできない。というか人間の骨なんて触りたくない。これは本当に衝撃的で、その人のそうなってしまった姿を私はあまり直視できなかった。

 

また、骨上げの部屋がすごく暑かったことが印象に残っている。火葬を終えたばかりの遺骨に残った熱で部屋が暑くなっていて、それに加えて遺骨の焼けたなんとも表現できない匂い。妻はその匂いで気分が悪くなったと言っていた。どんな匂いだったかは覚えていなくて、私はきっとそれを覚えたくなかったんだと思う。

 

 

 

 

そしてその人が亡くなってからしばらく経った現在。それ以前の日常と同じ日々に私は戻っている。厳密には同じではないんだけど、ほぼ同じ。身近な死に触れて、短い人生好きなことしなきゃとかやろうと思うことは今すぐやろうとか、そういう決意的なことはあまり思っていない。そういうのじゃなくて、その人は死んでしまって、でも私は今も生きてるんだなってことをなんとなく思った。文字にすると、「は?」って感じだけどその人を思うたびに毎回思うことがこれ。きっと私の中で、身近な人の死というものに実感が湧かないのが1つ。それと、生きていることと死んでいることの境界線が曖昧なんだと思う。

 

私は深い宗教的考えは何も持っていなくて、死後の世界もどんなものか想像したこともない。自分が生きてるあいだに分かりっこないんだから考えてもしようがないと思っている。絵に描いたような天国が待っているかもしれないし、絵に描いたような地獄が待ってるかもしれない。はたまた何もない「無」かもしれない。想像するより良くないかもしれないけどこの世にいるより幸せな可能性もあるんだから、精一杯生き抜いた末に死ぬことは悪くはないんじゃないかというのが私の考え。だから、その人がこの世で人生を終えて、違う所で少なくともこの世と同じくらいかちょっとでもいい環境で、そこそこ楽しく過ごしていてほしいなと思う。

 

 

気がかりなのは、その人が死んでから妻がまだ私の前で泣いていないことだったり。これから私は、その人を亡くした妻と精一杯生活していこうと思います。